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沖ノ神島神社おきのこうじまじんじゃ

沖ノ神島神社(おきのこうじまじんじゃ)は、長崎県 小値賀町・野崎島にある神社です。

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この社のはじまり

長崎の島に、高さ二十四メートルの巨石が立つやしろがあるって。

おきのこうじまじんじゃ。社殿の奥に、頂上まで二十四メートルの巨石がそびえています。

両の柱の端から端までは、十二メートル。頂上には、五メートルと三メートルの平らな石がのっています。

自然のものか、人の手によるものか。成り立ちは、いまも分かっていません。

名は、おえいし。むかしの祭りの場であり、あがめる対象であったと見られておるのじゃ。

やしろが開かれたのは、西暦七百四年と伝わります。向かいのおぢかじまのやしろから、分けてまつられました。

千三百年より、前なんだ。

この島には、三つの集落がありました。昭和三十年代の半ばには、六百五十人あまりが暮らしていました。

じゃが、ひとは島を出ていった。ふなもりが昭和四十一年、のくびが昭和四十六年に村じまいをしたのじゃ。

最後まで残ったのは、このやしろの神職の一家でした。その一家が島を出た二千一年に、島は無人になりました。

神主さんが、いちばん最後だったんだ。

翌年、向かいの島に遥拝所がもうけられ、いまも神事は続いています。行くなら、社殿の奥のおえいしを見上げてください。

人は島を下りても、石と神は山に残ったのじゃ。

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山に還った社

沖ノ神島神社

島に最後まで残ったのは

社の神職だった

野崎島には三つの集落があり、 六百人あまりが住んでいた。 高度成長期に人が出てゆき、 最後に残ったのは神職の家だった。 その一家が島を出て、 島は無人になった。

神職の一家が島を離れたのは2001年。翌年、小値賀島の 笛吹六社神社の境内に遥拝所が設けられました。

出典

①王位石の成り立ち(自然か人の手か)は分かっていない=本編[04]でそのまま言っている。『古代の祭壇』『頂上で神楽が舞われた』は伝えられている話であって、確かめられた事実ではない。②創建の704年(慶雲元年)と、地ノ神島神社からの分祀は社伝=本編[06]で『伝わります』と言っている。③『ご神体』とは言っていない=社の公式でその語が確認できなかったため、[05]は『祭りの場であり、あがめる対象であったと見られておる』にとどめた。④無人化の年=住民が全て離れたのは1990年代、最後の住民(この社の神職の一家)の離島が2001年。本編[10]は『その一家が島を出た二千一年に、島は無人になりました』と、神職の一家が最後だったことに絞って言っている。⑤遥拝所のある社の名(笛吹六社神社)は読みを一次資料で確定できなかったため本編では言わず、『向かいの島に』とだけ言っている。⑥野崎島の集落跡は世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産だが、それは集落跡であって沖ノ神島神社ではない=本編では触れず、概要欄で書き分けた。特定の宗教への賛同も勧誘もしていない。⑦ご利益は約束していない。参拝の作法を正しい・間違いと決めつけていない。神様の姿は描いていない。実在の社殿は写実的に描かず落書き風のままにしている。⑧参道は険しく危険=概要欄に『現地のガイドツアーの利用を』と書いた。⑨社名の表記は『沖ノ神嶋神社』(小値賀町公式)と『沖ノ神島神社』の両方が使われている。この回は特集カードと同じ『沖ノ神島神社』でそろえた。

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・社の由緒として書いているのは、社の公式の由緒・自治体の公式の案内・文献や発掘でわかっていることだけです。出典は全部このページに載せています。

・わかっていないことは「諸説あります」と正直に書きます。参拝の作法を正しい・間違いと決めつけません。特定の社への参拝を呼びかけることもしません。

・「信仰されてきた願いごと」は、その社がどんな願いごとで信仰されてきたかです。かなうことをお約束するものではありませんし、社に順位もつけません。

・住所・主祭神・社格・創建・交通は、ウィキペディア日本語版の各記事(Template:神社の欄と代表座標)から機械的に取っています。おでかけの前には、必ず社の公式でお確かめください。